そして感想を聞かれると、正直「うーん」と悩む。
しかし、一つ分かっていることがある。これは【アニメーション映画】だ。
可能な限り単純化された線と、余り陰影のない色のキャラクター。独特の風合いのある背景。一見絵本のようなテイストなのだが、それら全てが有機的に動く。絵が生命を持っている。圧倒的な表現力。口惜しいけどやはり、宮崎はすごい…
【以下、ネタバレ感想】
いやマジで。本当に感想に困る。
なんかね、夢っぽいと思った。誰かの見た夢を、映画にしてみせられているような感じ。
心の問題を解決するために、ユング派の心理療法で夢判断というのがある。夢ってあまりよく覚えていないけど、目的意識を持って、カウンセラーに報告するつもりで夢を見ると、それなりに鮮明に深い意味のある夢を見られるようになるらしい。
この「崖の上のポニョ」は、そんな治療中の相談者が、自己回復の過程で見た夢じゃないか、そんな印象。
その夢の中で相談者は、性的に未分化な5歳の男の子だ。
ある日、海の底からやって来た女の子と出会う。彼女は魚であり、元来は"海"という無意識界の住人。すなわちユング心理学でいうところの女性原型(アニマ)の未発達な状態だ。瓶に詰められ瀕死の彼女を救い出し、男の子はポニョと名付け、彼女を守ることを誓う…
そんな風にこの物語を見ていくと、色々納得出来るのだ。物語を動かす上で必要と思われる説明が省かれているのも、ポニョを誰も不思議がらないのも、海に水没した街に死の陰がないのも、物事が全て宗介とポニョを中心に動いて世界がバランスを失い、取り戻していくのも。
相談者はこの夢の中で、大いなる再生のプロセスを歩む。
水没した街は、生命の魔法が溢れる古代の海。それこそは集合無意識の持つ巨大な命のうねりであり、一つの終わりと大いなる復活へのはじまりだ。そしてそこに偉大なる母性、グレートマザーが現れる!夢判断的には出来すぎだよ、と。
5歳という年齢も絶妙だ。自他の区別なく無意識に近い状態で生まれてきた赤ちゃんの時代を卒業し、ようやく自我が芽生え始めた時期。異性を知り、しかし性欲はない。彼等の愛情はエロスの関与しない、精神的な結びつきということになる。純粋に、宗介はポニョが好きで守ってあげたいのだ。
そしてそれは同時に、相談者が必要としているのは、自らの中に抑圧している女性原理的な優しさや愛情、生命力、育む力だということを意味している。抑圧して未発達なアニマだから、ポニョは魚であり人のままだ。相談者は、自分の無意識領域の女性原理・アニマを全存在的に愛し、守り、育てるという誓いが必要とされているのではないだろうか。
しかしこの作品、正しく【アニメーション】であると思った。
絵に生命を吹き込む、という意味で作られた言葉、アニメーション。その迫力に圧倒される。アニメーション体験、と言ってもいいかも知れない。
CGを使わないで、手で描かれた絵。同じ内容でも、コンピューターが描いた絵ではこの迫力は出ない。ポニョが彼方から書けてくる海は、「生きている」海だからだ。この作品全体を支配しているのは、この古代から連綿と続く生命のソースである海であり、現代人が抑圧しているなにかの象徴だ。大画面一杯にうねるようにせまってくる水に、力と、感動と、恐怖を感じる。
そして映画館を出た私達は、ふと気が付くと口ずさんでいるのだ。
「ポーニョポーニョポニョ さかなの子♪」
とまあ、ユングの本なんて少しくらいしか読んだことのない素人ながら、そんな風に感じたわけですよ。
でもって、さっき「そうすけ」ってどんな漢字だったかな〜と思って公式サイト見てみたら、宮崎監督がこうのたまっておられる。
「少年と少女、愛と責任、海と生命、これら初源に属するものをためらわずに描いて、神経症と不安の時代に立ち向かおうというものである」
……うーん、宮崎監督程の表現者になると、時代に生きる人の夢をトレースしたのか?
つまり、上の例えで言うところの「相談者」というのが、男性原理的な競争社会に生きる現代人ってことでさ。
もしかして私のこの印象、いいとこついてる?(笑)
崖の上のポニョ サウンドトラック/久石譲[CD]


Joshin web価格 2,999円 (税込) 送料込

この曲の洗脳力は半端ねぇ…