2014年06月24日

キルラキル考察・9 キルラキルってなんだったんだろうね…

 わけわかんない、それが私達なんだよ!
 曖昧も中途半端も不確定未分化理解不能も全部ひっくるめてそのまま、よしとする。
 「服」という概念からの解脱。「服か服されるか」の戦いは裸で抱き合う開放感と笑顔で幕を閉じた。




 「なんだかよくわからない」ことが是である。

 それは物語のテーマとしては非常に難しいことは前回も書いた。ただ起こっている事を描写しているのは「中継」「報道」となんら変わらない。そこに知性の光を当て、解釈の切り口を作り、意味を見いだしてテーマを訴えるから「物語」と成り得るのだ。
 よくわからないけど面白い、それだけならナンセンスギャグにすればいいし、それも可能な素材だと思う。しかしそうはならなかった。「わからない」という知性の限界を認めた上での存在の肯定。理論上の矛盾を凌駕する力技。どうしたらそんなことが可能になるんだろうと思うが、恐らく色々試行錯誤をするうちに生まれた偶発的な様々な要素がこの不思議な物語を紡がせたのだろう。




 世界も、私達も、なんだかよく分からない存在だ。だからこそ美しく素晴らしい。「キルラキル」の物語をまっすぐ受け止めれば、そこが物語の肝である事は間違いないと思う。
 だがこの考察を書きながら、私はもう一つ、考えさせられた事がある。
 【なんだかわからないもの】を、本当にそのままに、私達は受け入れる事が出来るのだろうか。意識する事が可能なのだろうか。

 人は理解の範疇を超えたものに対しては、意識的に隔離(無視や拒絶なども含む)をするのが普通だ。場合によってはその存在を認識する事すら出来ないかもしれない。

 と、思い返せば劇中最も"わけわからない存在"である満艦飾マコも、ずっと孤独な高校生活を送っていた。しかし物語を通じてマコは多くの人々に受け入れられて行く。モブからヒロインへ。そう成った切っ掛けは、纏流子がそのわけ分からなさを丸ごと受け止めたところから始まっている。
 マコはただ不条理な女子高生ではない。流子曰く「強いんだか弱いんだか分からねえ、気がついたら人の心ん中までずかずか入り込んでくる女」であり、全力で流子を信じ支えてくれる存在だ。単純に目に見える場所で微笑んでいるだけの友達ではない。ただそこにいるだけではだめなのだ。理解できないけど惹かれる要素、「わけのわかんなさに応えなくちゃいけねぇ!」と思わせるなにか、なんらかの+αがなくてはならない。

 自分がそれまで培って来ていつの間にか杓子定規になっていた文脈の読み取り方とか、こういうのがかっこいいんだよねと独りごちる画面のセンスとか、んなものは蹴っ飛ばして笑いながら疾走するのに目が離せない。そんな摩訶不思議なアニメみたいな、なにかが。




 それがなんなのかを言葉で語る事は出来ない。
 強いてあげるなら「熱」かもしれない。存在そのものの「熱」だ。




 物理法則に作用反作用があるように、ある種の熱が生み出したエネルギーがどこかで受け止められたとき、そのエネルギーは新しい熱を生んで押し返される。熱は放たれるとエントロピーを増大させながら拡散し、より複雑さを増して行く。それもこの場合、ただ漫然と世界に広がっていくのではなく、意図して関わって巻き込んで広がる熱だ。
 それは創造物でも一緒だ。熱が伝わり熱を生む。思いが形に成れば感動が生まれる。最近はネットが介在するために、目に見える形でそれらが連鎖し、それまで以上のスピードで周りを巻き込んで広がりを見せる。

 「頑張れトリガー!」なんてそもそも、予告の遊びだったのだろう。しかし一度放たれた言葉が刺激を与え、加熱され続けてていた思いが沸騰した。ファンの間でラスト一週間叫ばれていた「頑張れトリガー!」の叫びは、この「キルラキル」という作品がもたらした突沸だ。
 「制作側が納品ギリギリの進行状況なのをネタにするなんて」という批判もあった。しかしこの場合に限っては、その批判は的外れではないか、と私は思う。制作側の熱、それに応えたファンの熱、そしてさらにそれに煽られる制作側の熱…というひとつの「熱の渦」がもたらした現象だったからだ。これはその直中にいて体験した者でないと、そのリアルは伝わりにくいかもしれない。
 もちろん「キルラキル」がただ「わけわからない」アニメだったらここまでの熱狂はない。一つの作品としての表現力とその完成度、それが「ちゃんと伝わったから」こその熱の渦だ。

 言葉を超えた熱がアニメという形でそこにあった。
 それは「キルラキル」という体験だった。




 わけわかんない、それが私達だ。
 理屈でも主義主張でもない。理由すらなくていい。
 よくわかんない熱で今、存在している。

 熱を放つ限り、誰かが受け止めてくれるかもしれない。
 経験が熱をより複雑な秩序にして、より多くの人に受けいれられるかもしれない。

 空間に熱を解き放つ。そこから生まれる理解を超えた世界は、素晴らしく、美しい。





キルラキル考察・了







 本当は予定になかった「キルラキル考察」でしたが、「キルラキルはダチョウ倶楽部」発言に刺激されて書いてしまいました。いや難しかったな…
 考察というより個人的反省文のようになってしまいました。
 この場を借りて「キルラキル」という作品に関わった全ての方に感謝します。素晴らしい作品をありがとうございました。

 にしても岡田氏がこの発言をしてからキルラキルを見たかどうかは知らないんですけど、彼がその後どう感じたのかはかなり興味あります。
 ちなみに私はダチョウ倶楽部は好きです(笑)





 
posted by K at 10:57| Comment(0) | TrackBack(0) | キルラキル

2014年06月12日

キルラキル考察・8 キルラキルは最初から答えが出てたって?

 満艦飾家の「なんだかよくわからないもの」を刻んでぶち込んだコロッケ。
 最初は気持ち悪く描写されていたコロッケが、美味しい家族の味になり、仲間との絆になる。
 ちょいちょい繰り返されて天丼ギャグかと思っていたら、まさかここに答えがあったとは思わなかった。



 「キルラキル」で語られたこのテーマそのものに付いて、今更私が多くを語る必要はないと思っている。ストレートに放たれた物語が、最も雄弁だからだ。運命の姉妹の和解と共闘を描いた第二十二話。挫折と孤独を乗り越えた二人が初めて向き合い、お互いの胸の中に確かにある思いを確認し合う。
 「なんだかよくわからない」ものが存在しているから、この世界は美しい。鬼龍院皐月はそう言った。彼女らしく的を射た言葉だ。皐月は常に世界とは何か、人とはどうあるべきか、自分はそこでいかにすべきかを考えて生きて来た。だからこそ「わけわかんない」存在の意味を見いだそうとしたのだろう。
 一方流子はもう少し感覚的に捉えていて、「わけわからない」けど大切な存在に応えなくちゃならない、と言う。その言い方がまた如何にも流子らしく、キャラのぶれない素晴らしいところだなと思う。彼女は世界や他人がどうあろうと反抗心と義侠心だけで突っ走って来た。流子が成長し他に心を開くほどに、応えなくちゃならない存在は増えていく。
 二人が重ねてきた人生が導きだした結論は、色合いは違うが芯は一つだ。このわけわかんないからこそ美しい世界を、仲間達を、守りたい。

 親の負の遺産を乗り越えるには、親の支配下から脱して、自分自身が掴み取った「なにか」を武器に戦わなくてはならない。
 「キルラキル」の物語の中で、世界を一つの大きな布にしてしまおうと目論む母親に対して、主人公が勝ち得たものこそ「世界とはそもそもなんだかわけがわからない存在である」という真実だ。自分の理解や認識の外側にあるものの肯定。理屈に合わなくてもいい、意味が理解できなくてもいい、とにかくなんでもいい。その存在が世界をより複雑にし、美しくする。

 この第二十二話を経て、流子と皐月は明らかに変わる。二人の振る舞いや表情もそうなのだが、なにより流子は自分の「人でも服でもない」体を最大限に利用して羅暁に挑むのだ。これは人外である自分の体を肯定した戦い方だ。
 そしてもう一つ、第二十三話のラストで戦いの目的が「羅暁と縫の捕縛」になっている。それまでは明らかに母殺しを目的にしていた皐月の戦いの、大きな変化だ。人類の敵と思われた母ですら、「わけわかんない」世界のひとつとして受け入れられていることになる。
 パラダイムの転換が作り上げようとする世界を変えて行く。父からの負の遺産を完全に乗り越えた姉妹だからこそ、それを武器にして母の支配に正面から挑む事が出来るのだろう。




 「力による圧倒的支配vs自由を求める個」という図式は、一つの戦いのパターンでもあると思う。
 しかし絶対支配へ対抗するロジックに、「わけわかんない」という言葉を使うのは、驚きを通り越して脅威だ。

 これは私の勝手な持論ではあるのだが… 戦いの物語がその果てに最大の敵(もしくはライバル)と対峙する時、全力で戦うのは勿論の事、舌戦でも勝利を収めるのが理想だと思う。それも、主人公がそれまでの物語の中で経験し掴んだ「なにか」でラスボスを論破してこそ、「物語」と「戦い」がリンクした勝利になる。
 そして「キルラキル」は見事にそれをやってのけた。流子と羅暁の宇宙空間での一騎打ち。広大な宇宙と生命の進化を語る羅暁に対して、流子と鮮血は言葉だけ追ってみれば支離滅裂だ。当然の如く羅暁に突っ込まれる…

 「なにをわけわからないことを言っている!」
 「それが私達なんだよ!!」

 これを言い切って、しかも説得力を持たせる。
 全体主義に対する主張として「多様性を認める」という言い方も出来なくはない。しかし「わけわかんない」となると、かなりニュアンスが違う。
 「わけわかんない」とは自分の理解の範疇を超えているということであり、思考の「諦め」なのだ。分析とか解釈とか、言語化すら及ばないかもしれない。左脳で理解できない。だから言葉では「わけわかんない」としか表現できない。
 「わけわかんないけど、それが私達だ」こうやって結論だけ言葉にするのは簡単だ。でもその結論を導きだす「過程」を物語で紡ぎ出すことはどれほど困難なことか!そこに説得力を持たせるためには、物語の読み手に「わけわからないこと」を「善きこと」として納得させなくてはならない…
 「わけわからない」のだから、台詞だけ、口先だけの理屈ではだめなのだ。




 実体験だからこそ、声を大にして言いたい。
 「キルラキル」の序盤で「なんじゃこりゃ?」と思っていた人ほど、この物語から受ける衝撃は大きい。

 まず題名がわけわかんない。主人公の行動もよくわかんない。それぞれの人物も何考えてるのかこの状況はなんなのか戦いの理由がなんなのか、だいたいの形が見えているようでどこか掴めない。
 要はちょっとこのアニメを見て「なんかそれっぽい事を大げさに表現していてダチョウ倶楽部の芸風みたいだなwww」なんて言ってるタイプの人間ほど、最終的に自分の「キルラキル体験」が全て物語の伏線になるのだ。
 こんな風に頭の中だけで物語のテーマだの主人公の行動原理だの、理屈をこねくり回して評論めいた文章を書いている人間ほど陥りやすい落とし穴に、まんまと嵌ったその気持ち丸ごと、スパッと斬り裂いて鮮やかにまとめあげられたのを口をぽかんと開けて見ている自分に気がつく。こんなのってありなの?と思うと同時に、自分の思考の傲慢に改めて頭を垂れる。そして「ちくしょーやられた…」とニヤリと笑ってしまう。




 自分がなにものなのか、何のために生きているのか。
 そんな事が最初から分かっている人間なんていない。

 わけわかんなくてもいい。人は自分を全て理解できないのだから。




 …と、ここまで書いて、本当はこの辺で終わらせるはずのこの考察にもう一つ、気がついた事が出来てしまった。もう少しお付き合い願えたら幸いです。



 
 
posted by K at 00:46| Comment(0) | TrackBack(0) | キルラキル

2014年06月06日

岡田斗司夫の発言がまた物議をかもしているらしい

「キルラキル考察」が滞っているというのに、こんな日記をアップして申し訳ない。
ぶっちゃけ考察系はじっくり考えて書くので、
来週末にちょっと大きな予定を控えている現状では
そうそう手が出せないのであります。風邪さえひかなかったらなー…

さて、私に「キルラキル考察」を書かせようと思わせた原動力
「キルラキルはダチョウ倶楽部」発言でおなじみの(違)岡田斗司夫氏が
ちょっとした問題発言をしてネットニュースになっていた!www


「なぜAKB襲った?やるなら政治家襲えよ」 握手会事件への「オタキング」発言が物議
http://news.infoseek.co.jp/article/20140605jcast20142206865



…なにを隠そう、実は私は岡田斗司夫と言う人は「すげーな」と思っている。
問題や課題に対する思考の掘り進め方…とでもいうか、
「なにが原因か」の着眼点、「どうしてそうなる」の分析力、「ならどうする」の論理性。
悔しいけどすげーな、と思わざるを得ないと思う。

そしてそれを「どう伝えるか」という表現手段として、最も岡田氏が説得力を増すのが
「文章」という表現だと思う。的確に旨い言葉を選ぶんだよ。
改めてそれを感じたのは、これを読んだ時だ。

オタクの息子に悩んでます 朝日新聞「悩みのるつぼ」より (幻冬舎新書)
http://honto.jp/netstore/pd-book_25343710.html

人生相談本は余り興味なかったんだけど、ちょっと面白そうだなと読んでみたら、
思いのほか内容が良くて、それ以来メルマガなんてとっちゃってるよ私。



でもねー、逆に思うんだよね。
人には向き不向きがあるのだと… 非常に残念なのですが。

人に自分の考えを伝える時の手段って、一番得意なジャンルってあると思うのよ。
特に身近な友達じゃなく、広く一般に向けて表現する場合はなおさらね。
例えば私自身は、喋るより断然、文章で書く方が得意だ。



岡田斗司夫って人はさ!
ぶっちゃけ真面目な話ほど顔出しで話さない方がいい気がするよ!
動画に向かない。岡田斗司夫は動画に向かない人なんだと思う。
これは顔そのものの話じゃなくて、声と表情なんだよね。
この問題発言もいい事言ってるんだけど、そこが伝わってくる前に
なぜかこっちを身構えさせるなにかが発せられてくる気がするの。
(しかもネット記事になる事によって、発言の本意が誤解されているし)

だからさ。
岡田さん、動画って表現媒体はあなたに合わないと思いますよ…



 
posted by K at 21:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感いろいろ